「Essence of Vedanta Vol,1」
第一回目の今回はSwami Cetanananda Sarasvati先生による「プラサーダ」についてのメッセージです。
前編、後編に分けて皆さんにお届け致します。
Cetana先生の明かすプラサーダのヴィジョンが私たちにクリアに見えますように。
プラサーダが見えるきれいな考え –前編–
プラサーダという言葉があります。
この言葉は、生き方をヨーガに変えるための、ストレスから自由でご機嫌な生き方のための大切なキーワードなのです。このプラサーダの文字通りの意味は、「ご機嫌、朗らか」という意味なのですが、この意味をヴェーダの文化を持つインドの人々は、とてもとても大事な意味で使います。それが何かを見てみましょう。
さて、皆さんは、生活の中で「したい事」と「すべき事」は、そもそもひとつの同じものだと言えば、どう思われますか? 「したい事があるけど、それは今度の連休まで楽しみにとってあって、今は、お金を稼ぐためにしたくない仕事をしているのだ」という人も多いのではないでしょうか?
私の子供の頃を思い出します。毎日朝早くから夜遅くまで働いている父を見て、大人は大変だなーと思っていました。ある時、父が「あー、ゆっくり本を読んで余生を過ごしたいものだ」と言うのを聞いて、私は尋ねました。「お父さん、どうしてしたい事しないの?」と。父は、困った顔をして「したい事をしていては食べていけないのだよ。まずは食べるために働かなきゃ。働いてお金がたまったら好きな事ができるんだよ」と言いました。それから何年も経って、進路を決めなければならない日が来ました。いよいよその日が来てしまったという思いでした。その時に再度、父に聞きました。「お父さん。したい事をし続けたら、仕事になるような気がするんだけど、どう思う?」 父は答えました。「そんな事が叶うのは、よほど秀でた能力のある稀な人だよ。普通の人は、したい事でも仕事になれば、いやになるのさ。まず、お金のために働きなさい。それから趣味で、いろんなことをすればいいでしょ。」
最近は、時代も変わって、そんなお父さんは少なくなっているかもしれませんね。私立の学校では、個々の子供の持つ能力を育てる方針の教育があるとか聞きます。先生も親も協力して、それぞれの子供が関心を示す部分を育てるそうです。その方針で育った子供は「したい事」と「すべき事」の分裂の無い人生が開けてゆくのでしょうか?毎朝、ため息をつきながらお布団から出てきて「働きに行かなきゃ」と、疲れた体を引きずりながら家を出てゆく大人にはならないと言う事でしょうか?
ヨーガという言葉のふるさとはヴェーダの文化です。今でもインドに深く根付いているヴェーダの文化の中で20年ほど過ごして知った、このプラサーダという美しい言葉の意味を伝えたくて、この文章を書いています。ヴェーダは私たち人間の考えが及ばない全体宇宙を明かしている教えで、聖典と呼ばれます。そのヴェーダの明かす宇宙観はこの文化を生きる人々の考えに宿っていて、大人になるという意味、働くという意味をそんなふうに辛く感じていた私の宇宙観、人生観とはまったく違ったものでした。
ヴェーダの言葉でいうなら、「あれを得たい、これがしたい」という願望はラーガと呼ばれます。また、「すべき事」はダルマと呼ばれます。例えば、誰だって知っているように、人は嘘をつかずに正直であるべきです。まわりの人や物を傷つけたりせずに、親切にやさしくすべきですし、不公平でなく公平であるべきです。無関心やいじわるでなく、思いやりをもって振舞うべきです。「すべき事」、ダルマを選ぶべきです。しかし、ダルマから外れて、ラーガが強くなればなるほど、嘘をついたり、ごまかしたり、地位を悪用してでも、したい事をするために、もっとすべきでない事を人はしてしまいがちです。反対に、私の父のように「すべき事」を選ぶ強い人でも、それは「したい事」と違っているように見えてしまうようです。いや、それ以前に、「あれが得たい、これがしたい、こうありたいといった目標なんて持てない」という無気力になってしまう事もありますよね。何が起こっているのでしょう。
実は、その点に関して、聖典ヴェーダははっきりとした答えを持っています。「すべき事」をする時「したい事」とは違って見えるという人生も、「したい事」への欲望で「すべき事」とは正反対の事をしてしまう人生も、「したい事」が何もないという無気力な人生も、単純に無知から起こっているというのです。悪い人ではなく、情けない人でもなく、単に知らない人なのです。知らない事がその根本的な原因なのです。そして、その無知を追い払い知識を明かすための道具が、ヴェーダとその最後の部分、ヴェーダーンタの言葉なのです。ちょうど、ジグゾーパズルで言えば、全部のピースが見事に組み合わさらないと、美しい全体の絵は見えませんよね。全体の絵が見えないので、つまり、全体に無知なのでそれを完成してみたいという願望が少しも持てません。ほんの少しのピースをあちこちバラバラと組み合わせてみても、疲れ果てるだけで少しもわくわくしません。「少しでも、このピースに合うピースを見つける努力をしなさい。それがすべき事だ」と言われても、とてもしたい事とは思えません。何のためにするのでしょう? それに似て、私たちは「結婚」「仕事」「家族」「勉強」「死」「生」「愛」など、ピースとなる言葉は聞いたことがあっても、それが全体の中でどのような意味があるのかが見えていないのです。その状態で、どうして、人生にわくわくできるでしょう? 全体に無知なのに、どのように「したい事」と「すべき事」がひとつに見えるでしょう?
ヴェーダの文化を生きる人にとって、人の成熟とは、先生の教えるヴェーダや、その最後の部分のヴェーダーンタの言葉を学んで無知を落としてゆく事です。言い換えるなら、「したい事」と「すべき事」は、知れば知るほど、そもそもひとつであったことが明かされてゆきます。「したい事」と「すべき事」がいつもひとつになっているに違いないご機嫌なジニャーニー(知った人)を私はたくさん見てきました。その中でも、スワミ ダヤーナンダジはそれを極めた人でした。2015年に体を離れられましたが、いつもご機嫌なクラスで、生徒たちを笑わせながら、わくわくさせながらヴェーダーンタを教えてくださる先生でした。彼のもとで、たくさんの生徒たちが学びました。私たちは、たくさんのプラサーダを受け取りました。全体を知るための道のりは、わくわくする喜びの道のりなのです。それは、不安から安心への道のりです。無知と不安はいつも共にあるからです。
インドのお寺では、毎日の朝夕の儀式が終わった後すぐに、神様に捧げられたお供えがお参りをした皆に配られるのをご存知ですか? お水や、お花や、お菓子、それに果物など、神様に捧げられた物が、神様から参拝者たちに返ってくるものもプラサーダと言うのです。参拝者たちは、プラサーダをありがたく受け取った後、お水やお菓子などはすぐに自分の口に入れるだけでなく、家族や親しい人へのお土産としてきれいに包んで家に持ち帰る人も多いのです。
例えば、持ち帰ったプラサーダの甘いお菓子が、次の日、お勤め先で配られるとしましょう。
「あっ、社長。このお菓子、社長もぜひどうぞ。」
「うーん。わしは糖尿病をわずらっているので、甘いものは遠慮しとるのだよ。」
「いいえ社長。これはプラサーダです。」
「おー」
プラサーダと聞いたこの社長さんの反応「おー」を、ここからはうまく伝えたいと思います。
この社長さんは、プラサーダのお菓子を手にしてありがたく眺めた後、幾つかの小片に砕いて、まるで神様が処方した薬を口にするかのように小さなかけらを指につまんで口に入れるでしょう。確実に血糖値は上がるでしょうから小さなかけらだとしても。残った全てのかけらは、大事に紙に包んで、家族や親しい人に配るために持ち帰るでしょう。これが、プラサーダと聞いたとたんに思い出す意味から起こる態度なのです。ついつい、私たちの目には見えなくなりがちな事を、プラサーダのお菓子が思い出させてくれるのです。
ヴェーダの文化の中で育ったインドの人たちの中では、この社長さんと同じように、プラサーダと聞いて態度が変わる人が多いでしょう。プラサーダと聞いたとたんに、日常では忘れがちな大切な事が見えるからなのです。それを思い出させてくれるのがお寺で配られるプラサーダなのです。
ではいったい、プラサーダという言葉で、何を思い出すのでしょうか?「波と海のお話」を使って、考えてみましょう。
左の波くんは、涙を流していて辛そうです。何が起こっているのでしょう? 右の波さんには見えている、何かが見えていないのです。
「あー、何て、ボクはちっぽけでとるに足らない波なのだろう。あー、まずはあの大きな波に認められて、ボクも取るに足る大きな波にならなきゃ。そして、地位や富を得て安心を得なきゃ。」
ちょうど、真っ暗な夜の森の中では、キャンプファイヤーの火の明かりが届く範囲だけしか見えないように、左の波くんの考えに明かせるのは、ほんの小さな範囲だけのようです。彼の考えにあるのは周りの波の様子だけで、それ以外の事は無知の暗闇に隠れているのです。同じような例えですが、小さな子供の目には、スーパーマーケットでお野菜が採れると見えるそうです。その子供の考えに明かせるのは、スーパーマーケットのお野菜だけで、その後ろにあるお百姓さんや、流通業の人たちや、そういった人たちの苦労は見えていなくて、無知の暗闇の中に隠れているのです。感謝の気持ちの起こりようがありません。ですから、時にはとてもわがままです。
それと同じように、たくさんの事を知っているはずの私たち大人だって、その考えにはほんの薄っぺらな世界だけが明かされているにすぎません。私たちは無知の暗闇の中で、ほんの小さな世界を全世界だと言い張るのです。「そんな事はない」と言えますか? いいえ。なぜなら、お百姓さんや流通業の人たちのさらに後ろに働いている最も大切な人が見えていないからです。聖典ヴェーダやヴェーダーンタが私たちに明かしているのはその人なのです。
後編に続く。
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