「Essence of Vedanta Vol,1」
プラサーダが見えるきれいな考え
–後編–
この波くんのたとえに戻ってみましょう。一日中、一年中、ひょっとしたら一生、この波くんの考えに思える事の全ては、目の前の事だけで、他の波たちとの駆け引きに大忙しの毎日です。「あの波に嫌われないようにしなきゃ。あの波を追い越さなきゃ。あの波グループに入らなきゃ」と。この波くんには、自分を含めた波たちの後ろで、全ての波たちを支えている海さんが見えていないのです。ですから、海さんを想うことで生まれる感謝の気持ちもなければ、海さんへの信頼から生まれる安心がないのです。たくさんの波の中で、ポツリと孤立した小さく取るに足らない感覚が自分という意味なのです。全体の人、いつも離れずに一緒にいて支えてくれている人、海さんを知らないのです。波たちは、海さんとは誰なのかを知らなければなりません。海さんのことを知れば知るほど、波たちは自分自身にくつろぎます。
私たちの日常生活も、ついつい、この波くんのようになりがちです。「ボスに認められなきゃ。奥さんのご機嫌をとらなきゃ。ビッグになって幸せにならなきゃ。成功して安心を得なきゃ」と。その道のりで、ついつい、言い訳に疲れたり、張り合ったり、嘘をついたり、あきらめたり。世の中では、夫婦喧嘩から戦争までそんなことばかりが目につきますね。波くんのたとえ話で言うなら海さんにあたる人を、ヴェーダの文化を生きる人はイーシュワラと呼びます。そもそも全体宇宙が生きていて、その中に私たち個人が生かされているのです。海さんに全ての波たちが生かされているというのが例え話です。ですから、そのことが見えている右の波さんは力強くて、ご機嫌で、やさしくて、朗らかです。いつも海さんに守られている事が見えているからなのです。だから右の波さんは言うのです。
「海さんという、ひとりの人の中で、私たち全ての波たちが生かされているよ。私たちは海さんによって運ばれ、海さんから全てが与えられているよ。小さな波ちゃんにも、大きな波くんにも大切な役割があって、その役割は海さんによって与えられているよ。白波くんも、巻波くんも、全部の役割を与えているのは海さんだよ。海さんはね、完璧に、それぞれにふさわしい役割を与えてくれているのだよ。ちょうど、ドラマの総監督が、役者たち全員にそれぞれの役をあてがうようにね。そして、海さんはね、不公平とか支離滅裂に役をあてがっているのではないよ。気づいていようといまいと、ひとりひとりの波くんたちに最も必要な役をあてがってくれているのだよ。私たちは、その海さんが見えていないのだよ。」
最近は、地球生態学(エコロジー)の分野でも、この地球こそがひとつの生命体であるとする学者たちが現れましたね。地球こそが超知的なひとりの人であるという事です。その事実に無知で、私たち地球の中に生かされている個人の視点からは、「私が生きている」と言ったり、「私が呼吸している」と言ったり、「私が食べている」と言ったりしますが、実は、私たち、つまり、生きとし生ける物たち全ての体を貫いて、たったひとりの地球が呼吸しているというのです。ひとりの生きた地球が、私たちそれぞれの体を支えて呼吸し、食欲として現れているのです。私たちは生かされているのです。味覚として、食欲として地球が私たちの体に現れてくれていて、食べるという行いを起こしてくれているのです。ちょうど、波くんが「ぼくが泳いでいる」と言えば、海が笑って「おお、無知で小さな波よ。わたしがお前さんたちを運んでいるのだよ」と言う事に似ていますね。ですから、もし、そのことが見えてくれば、食べ物も、それを望む食欲も、体も、全てプラサーダなのです。私たちを支えてくれている人からのプレゼント、それが、プラサーダなのです。
さて、地球どころか、この宇宙こそがひとりの人で、その人がイーシュワラです。地球という人も、生きた宇宙、イーシュワラに生かされている人なのですね。ちょうど、水が海として現われている例えのように、源の意識が宇宙全体として現われていて、その中に生きとし生ける者たちを生かしています。宇宙こそが全体として生きているのです。ですから、昔から偉大な先生たちは言います。「私が呼吸しているという考えを手放して、呼吸をイーシュワラに返してごらん。リズミカルな生きた宇宙に呼吸をまかせてごらん。そうすれば、考えも生きた宇宙を認めるよ。生きた宇宙、イーシュワラに考えが留まりますから、考えはやっと安心の場所を見つけてくつろぐのだよ」と。
生きた宇宙、イーシュワラから全てが与えられています。地球も、空気も、土も、太陽の光も、水も、食べ物も、体も、家族も、役割も、考えという道具も、全てが与えられていて、それはプラサーダなのです。あの社長さんは、「このお菓子はプラサーダですよ」と聞いた瞬間に、聖典の明かすこういった宇宙観を思い出したのです。社長さんの考えは、次のようなものなのです。
「ああ、イーシュワラ。ついつい、あなたを見失って、周りとの競争だけに巻き込まれて意地をはったり、意地悪になったり、駆け引きしたり、孤立感や不安におちいってしまう私をお救いください。あなたを想える考えに満たされますように。ああ、イーシュワラ。私の考えにあふれてください。私の口を通して、思いやりや、やさしさの言葉としてあふれてください。無知な私が、私にあふれようとしているあなたを止めてしまいませんように。歪みのない知識として私の考えに現れてください。人々を喜ばせる技術として、私を通して現れてください。私の足として現れ、行くべきところに私を運んでください。無知ゆえの私のへたな駆け引きが、私に現れようとしているあなたを妨げませんようにお守りください。ついついあなたが見えなくなって、小さな見方になり、不安になり、不平不満になり、私は怒りにすらなってしまいます。ああ、私をお守りください。いつも、あなたからのプラサーダを想える、きれいな考えをお与えください。」
こんなふうに、プラーダの意味を想えているとき、社長さんの考えは、そもそもの喜びに満たされていることがわかりますでしょうか? こんなふうに祈れる事こそが、プラサーダなのですね。
努力して勉強してきたのに、試験に落っこちたとしても、「ああ、この学校は私の行くべき学校ではなかったようだ。他に行くところがあるのだ」と、イーシュワラを知っている人の目には、不合格ですらプラサーダなのです。その人の人生はくつろいでいて、不安なく、ご機嫌です。
子供はプラサーダなのです。インドでは、子供の名前にプラサーダとつける親も多いのですよ。プラサーダちゃんです。なぜなら、お寺のプラサーダと同じく、プラサーダちゃんが、いつも大切な事を思い出させてくれるからですね。大きな愛の人に生かされている事を毎日想いながら、子育てができるってすてきですね。
さて、いかがでしょうか? ヴェーダの文化を生きる人の目にとって、この生き方が「したい事」であり、「すべき事」なのです。そして、それをかなえてくれるキーワードがプラサーダです。プラサーダの意味を知って深める喜びがある生き方、祈りのある生き方、知的でわくわくする生き方をヨーガと呼ぶのです。そして、このヨーガの生き方によって準備された、きれいな考えにだけ、先生の明かすヴェーダーンタの言葉がうまく働き、やがて、人はモークシャと呼ばれる自由を得るのです。それが、人間のゴールです。
ヴェーダの国の人々にとっては、この宇宙こそが生きていて、それはイーシュワラと呼ばれます。星が周期し、季節が変わり、雨が降り、一粒の種から花が咲き、その生きた宇宙の秩序はダルマと呼ばれます。
ヴェーダの国では、学校の先生の仕事といえば、ダルマを教えることを意味します。子供たちは小さなころから、目に見える世界だけではなく、その後ろにある目には見えないかすかな秩序、ダルマを教わります。
勉強や仕事、結婚生活だって、ダルマをたどってイーシュワラを理解しようとする生き方、ヨーガとなるのです。勉強も働くこともダルマの意味とつながらないままに「どう生きたいのか」と問い詰められる事は、子供にとって、それはそれは恐ろしいことです。だから、安全のための進路になるし、休日を待ち望んで働く人生になるし、月曜日の朝にはため息がでるし。でも、辞めてどうなるのかと思うし。世の中のことが、わかればわかるほど、大人になるほど「ちっぽけで取るに足らない私」、かけひきばかりの私。
そんな私が大人になって、何かむなしく思うとき、もし、そんな自分からの自由を求める旅がはじまるなら、ヴェーダはそれを祝福し、ヨーガと生き方を教えはじめます。
ヴェーダの最後、ヴェーダーンタに教えられているモークシャの知識は、ヨーガを生きるヨーギーたちのきれいな考えだけに宿ることができると伝えらえています。時間と空間ですら閉じ込めることのできない私、それこそが本当の私の姿であると知り、ヨーギーたちは、限りの無い自由、モークシャを得ると言われています。
Cetana先生の勉強会も定期的に開かれています。
パラヴィッディャーケンドラムの詳しい情報はコチラまで
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Om
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