2019年7月31日水曜日

「Essence of Vedanta Vol,2 −セーヴァー −前編−」

Essence of Vedanta Vol,2 」

セーヴァー −前編−

今回は、ヴェーダーンタ、サンスクリット講師、そしてパーニニ文法家のMedha Chaitanya先生による「セーヴァー」についてのお話を皆さんにシェア致します。

 日本のみならず、本場インドやその他の国でも大活躍の先生。伝統的な学びをしておられたからゆえの様々な切り口からのお話は、ヴェーダーンタの実践的な教えをわかりやすく教えてくださいます。

前編、後編に分け、お届け致します。


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セーヴァー(सेवा [sevā]


セーヴァーというサンスクリット語の言葉は、ヴェーダが教える伝統的価値観をよく表している言葉であり、恩師であるプージヤ・スワミジが、私達全ての人に話す時にいつも強調されていた言葉です。
私自身も、ヴェーダーンタに出会ってから毎日、私のすること、書くこと、話すこと、考えることの全てが、全てのものへのセーヴァーでありますように、と考えながら生きています。


ヴェーダーンタが教えるヴィジョンである、「自分と世界の本質について」に関わるトピックであるゆえに、以下とても長文になります。また、本来は直接話をするべきトピックなので、文面ではどうしても分かりにくくなると思います。きちんと理解したい人には世界中どこにでもお話に伺いますので、いつでもご連絡ください。


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消費者から貢献者への成長
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セーヴァーとは、与えられた状況の中で、貢献者として行動することです。
人間としての精神的な成長は、貢献者として行動することによってのみでしか得られません。


どのような状況においても平安で幸せであり続けていられるという、物理的だけでなく精神的に豊かな人生を送るためには、精神的な成長が必要とされます。さらに、人間として生まれて来た意味を完全に満たしてくれる自己の本質の知識を得るための準備が整えるためにも、精神的な成長は、最も必要とされる要因です。特にヴェーダーンタ(ウパニシャッド)で教えられている知識は、それを聴く人の精神的な成長が足りなければ、単なる小難しい哲学のような情報にしか聞こえず、自分のこととして理解されることはありません。


ゆえに、ヴェーダーンタを学ぶ人はもちろん、全ての人にとって、人生の出来るだけ早いうちから、セーヴァーという言葉が教える貢献者として行動する意味について知っておくことは、自分の人生を精神的に豊かな人生にする上で、とても重要なことです。
セーヴァーの姿勢とは、自分を取り巻く状況から、より利益を得ようとする消費者的な姿勢から、貢献者的な姿勢に変え、自分に出来ることは何かを考え、一歩踏み出して行動することです。


自分に出来ることは何かを考えるとき、基準となるのは、自分が相手の立場なら、と想像する、相手を思いやる気持ちです。
人間の心というものは、他の痛みを感じ取れるように出来ています。相手が人間であれ動植物であれ、相手の痛みを思い計り、痛みを取り除き、幸せを増やすのに役立つ行動を選びとることが、自分のすべきことであり、貢献者になるということです。
しかし、相手を思いやる気持ちは、自分の都合や好き嫌いといった条件によって阻害され、見えなくなってしまうことは往々にしてあります。ゆえに、状況を判断する目が、自分の都合や好き嫌いに染められていないか、意識する必要があります。これが、貢献者へと成長を飛べるための第一歩です。


自分がどのように行動すべきか分からない、という人は多いですが、それでも、他人がどのように行動すべきかについては、はっきり分かっているものです。
自分が他人にして欲しいことが、自分のすべきことであり、自分が他人にされたくないことは、自分がすべきでないことです。これくらいに当たり前に、全ての生き物に共通する法則を、サーマンニャ・ダルマ(普遍的秩序)と言います。この普遍的な価値観を先天的に察することの出来る心を持っているのが、人間の心です。


人間なら誰でも、今ここで何をすべきかについて、だいたいのことは先天的に分かっている筈なのです。しかし、自分の好き嫌いによって心に曇りができて、都合よく、自分のするべきことが何なのかが分からなくなるのです。
普遍的な価値観に沿った行為を、ダルマに沿った行為と呼びます。人間の自由意志が、ダルマに沿った行為を選択する為に使われた場合、自由意志が人間らしく、賢明にうまく使われたことになります。


現代の社会では、より多くを消費することがより幸せなのだという概念が広く受け入れられていますが、ヴェーダの価値観では常に、貢献者へと成長を遂げることを推奨しています。なぜなら、消費者から貢献者へ変容することは、人間として本当の成長することであり、それは本当の豊かさをもたらすからです。


貢献者として世界に参加することを選ぶことによって得られる精神的な成長と精神的な豊かさは、ほんとうに生きていて良かったと思える人生を送るために必要であり、また、人生の本当の意味を完全に満たすためにも必要になります。ゆえに、自分が貢献者になることを選ぶこと、つまりセーヴァーの姿勢で世界に参加することは、ヴェーダの価値観のなかで強調されているのです。


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小さな自分という自己認識
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自分の本質を知らなければ、この身体この心でこの世界を認識している経験が絶対となります。ヴェーダーンタの教えによって、自分の本質は完全な存在であると聞かされても、自分の心が精神的な成長を遂げていなければ、ヴェーダーンタの教えはただの難しい哲学のようなお話にしか聞こえず、今ここにいる自分のこととして理解できません。

この広大な世界の中で、ほぼ見えないくらいに微小な点に過ぎないこの身体とこの心で自分を認識しているとき、自分という存在はあまりにも儚く無力な存在です。ゆえに、経験によって得られる満足感に完全に依存し、思い通りにいかなければ、当然の結果として、嘆き悲しむことになります。これが普通の人の自分と世界の認識です。


このような自己認識と世界の認識を持っているから、自分が世界と関わるときの態度が、消費者的な態度になってしまうのです。この世界の中で、とてつもなく小さな存在として自分を認識し、この世界から出来るだけ多くのお情けとおこぼれを頂戴して、安心を得て幸せになろうとし続け、それに終わりはありません。自分をこの身体この心で認識している以上、完全に満たされることが無いからです。


人間は誰でも、生まれたときは完全な消費者です。空気と食べ物を必要とし、また、周りの人からのお世話も必要としています。生き続けている間はずっと、このように世界からさまざまなものを受け取らなければなりませんから、消費者の側面を持って世界と関わり続けることは避けられません。


ヴェーダは、消費することを最小限に抑え、貢献を最大限にすることを、人間としての成長として教えています。それと正反対の価値観を教えるのが、現代の消費経済社会です。しかし、このような社会は、物理的にも経済的にも、そして倫理的にも当然の行き詰まりを迎えています。ゆえに、現代に生きる人々には、貢献者になろうとすることが人間としての精神的な成長と豊かさであると教えるヴェーダの人生観を、是非学んでいただきたいと願うばかりです。


人間は、生存本能が備わっているだけでなく、自分とは本質的にとても小さな存在だと認識し、それをどうにかしたいと根本的に切望しているので、放っておけば消費するばかりになってしまう傾向にあります。ゆえに、貢献者へと成長するためには、自由意思を使って、貢献者となることを選び取らなければなりません。人間に与えられている自由意志とは、この為にあるのです。そして人間の知性とは、自分は何をするべきかについて、正しく判断するために与えられているのです。


ヴェーダの価値観は、盲目的に従うだけの思考停止を導くものではなく、人間としての知性の力を最大限に使うことを推奨します。また、ヴェーダーンタの教える真実も、信じるものではなく、理解する為にあるのです。ゆえに、ヴェーダでは、人間を人間たらしめている、人間の最大の財産である知性(メーダー、ブッディ)が、人間として生まれて手に入れられる幸福の追求に欠かせないものとして教えています。これが、ヴェーダという聖典が、他の宗教の聖典とは根本的に異なる点です。動植物は人間の消費の為だと神が仰ったのだから、盲目的に何も考えずに使い放題つかえばいいよ、というのではなく、神は人間に知性を与えたのだから、ちゃんと使ってね、ということです。


貢献者になることは良いことなのだと感じられる経験は、子供の頃から周りの大人が教えてあげることが出来ます。子供が何かを成し遂げたとき、たとえそれが小さなことでも、子供の目を見て、心から褒めながら、あなたのした事は私を幸せにしてくれた、あなたの存在は私の幸福に貢献してくれている、としっかり伝わるようにコミュニケーションをとれば、肯定的な自己認識と、貢献者になれるという自信を育てることに繋がります。



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大きな自分という自己認識
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多くの人は、「貢献しようにも、お金にも才能にも恵まれていない私なんて無理!」と言います。この「私なんて」という態度は特に日本文化に顕著かも知れません。セーヴァーを頼まれた場合、断る理由として、「私になんて無理です」というセリフがよく聞かれます。

たしかに、貢献者になるには、自分が状況よりも大きな存在でなければなりません。しかし、貢献者になるためには、有り余るほどのお金や才能は必要としません。自分の自己認識が、目の前の状況よりも大きければ、それで良いのです。


与えられた状況を客観的に見て、自分に何が出来るかを考え、それを行動に移すことが貢献するということです。今目の前にある状況が与えられているのと同様、自分が持っているものも全て、与えられています。自分の手足も時間も、自分を育ててくれた人々も、自分の頑張れる力も、全ては自分に持たされ、与えられ、目の前にある状況の一部を構成しています。この事実に気づいて、全ては自分が成長するために与えられているとして、状況を客観的に判断すれば、おのずと、この状況の中で自分がどのように貢献者として参加するのが適切なのかが見えてきます。


人間や動植物といった全ての生きるものの、痛みを減らし、幸福を増やすために、今目の前にある状況の中で自分が選択すべき行動はなにか?人間としての思考能力は、このようなことを考えるためにあります。
自分に出来ることを発見しているとき、自己認識における自分は、状況よりも大きな存在です。




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クル、セーヴァーム
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多くの人々が互いを思いやり合い、それを行動に移すことを全国的なレベルで可能にするために、プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉を掲げた「AIM for Seva (All India Movement for SEVA、エイム・フォー・セーヴァー)」という活動を発足させました。僻地に住む子供たちが安全に通学できるよう、インド全国に100以上の寄宿舎が建てられ、スワミジのお弟子さんたちが運営や指導に関わっておられます。また、幼稚園から大学までの文化的で質の高い教育機関や、医療機関も提供されています。


スワミジはヴェーダーンタのヴィジョンにもとづいた曲を多く作詞作曲されています。その中で、AIM for Sevaのテーマソングとして書かれた曲の繰り返しの部分では、「
कुरु सेवां त्वं कुरु सेवाम्... (セーヴァーをしなさい)」というダイレクトなメッセージが私達に教えられています。

助けを必要としている状況に向かって、自ら歩み寄り、手を差し伸べる。
実際にどのような活動をされているのか、皆がどのような姿勢で行動しているのか、是非インドに行って見て来てください、そして、是非この活動に参加してみてください。



後編へ続く



2019年7月12日金曜日

2019年7月7日日曜日

「Essence of Vedanta Vol,1 –プラサーダ 後編– 」

Essence of Vedanta Vol,1


プラサーダが見えるきれいな考え 
後編


この波くんのたとえに戻ってみましょう。一日中、一年中、ひょっとしたら一生、この波くんの考えに思える事の全ては、目の前の事だけで、他の波たちとの駆け引きに大忙しの毎日です。「あの波に嫌われないようにしなきゃ。あの波を追い越さなきゃ。あの波グループに入らなきゃ」と。この波くんには、自分を含めた波たちの後ろで、全ての波たちを支えている海さんが見えていないのです。ですから、海さんを想うことで生まれる感謝の気持ちもなければ、海さんへの信頼から生まれる安心がないのです。たくさんの波の中で、ポツリと孤立した小さく取るに足らない感覚が自分という意味なのです。全体の人、いつも離れずに一緒にいて支えてくれている人、海さんを知らないのです。波たちは、海さんとは誰なのかを知らなければなりません。海さんのことを知れば知るほど、波たちは自分自身にくつろぎます。


私たちの日常生活も、ついつい、この波くんのようになりがちです。「ボスに認められなきゃ。奥さんのご機嫌をとらなきゃ。ビッグになって幸せにならなきゃ。成功して安心を得なきゃ」と。その道のりで、ついつい、言い訳に疲れたり、張り合ったり、嘘をついたり、あきらめたり。世の中では、夫婦喧嘩から戦争までそんなことばかりが目につきますね。波くんのたとえ話で言うなら海さんにあたる人を、ヴェーダの文化を生きる人はイーシュワラと呼びます。そもそも全体宇宙が生きていて、その中に私たち個人が生かされているのです。海さんに全ての波たちが生かされているというのが例え話です。ですから、そのことが見えている右の波さんは力強くて、ご機嫌で、やさしくて、朗らかです。いつも海さんに守られている事が見えているからなのです。だから右の波さんは言うのです。


「海さんという、ひとりの人の中で、私たち全ての波たちが生かされているよ。私たちは海さんによって運ばれ、海さんから全てが与えられているよ。小さな波ちゃんにも、大きな波くんにも大切な役割があって、その役割は海さんによって与えられているよ。白波くんも、巻波くんも、全部の役割を与えているのは海さんだよ。海さんはね、完璧に、それぞれにふさわしい役割を与えてくれているのだよ。ちょうど、ドラマの総監督が、役者たち全員にそれぞれの役をあてがうようにね。そして、海さんはね、不公平とか支離滅裂に役をあてがっているのではないよ。気づいていようといまいと、ひとりひとりの波くんたちに最も必要な役をあてがってくれているのだよ。私たちは、その海さんが見えていないのだよ。」


最近は、地球生態学(エコロジー)の分野でも、この地球こそがひとつの生命体であるとする学者たちが現れましたね。地球こそが超知的なひとりの人であるという事です。その事実に無知で、私たち地球の中に生かされている個人の視点からは、「私が生きている」と言ったり、「私が呼吸している」と言ったり、「私が食べている」と言ったりしますが、実は、私たち、つまり、生きとし生ける物たち全ての体を貫いて、たったひとりの地球が呼吸しているというのです。ひとりの生きた地球が、私たちそれぞれの体を支えて呼吸し、食欲として現れているのです。私たちは生かされているのです。味覚として、食欲として地球が私たちの体に現れてくれていて、食べるという行いを起こしてくれているのです。ちょうど、波くんが「ぼくが泳いでいる」と言えば、海が笑って「おお、無知で小さな波よ。わたしがお前さんたちを運んでいるのだよ」と言う事に似ていますね。ですから、もし、そのことが見えてくれば、食べ物も、それを望む食欲も、体も、全てプラサーダなのです。私たちを支えてくれている人からのプレゼント、それが、プラサーダなのです。


さて、地球どころか、この宇宙こそがひとりの人で、その人がイーシュワラです。地球という人も、生きた宇宙、イーシュワラに生かされている人なのですね。ちょうど、水が海として現われている例えのように、源の意識が宇宙全体として現われていて、その中に生きとし生ける者たちを生かしています。宇宙こそが全体として生きているのです。ですから、昔から偉大な先生たちは言います。「私が呼吸しているという考えを手放して、呼吸をイーシュワラに返してごらん。リズミカルな生きた宇宙に呼吸をまかせてごらん。そうすれば、考えも生きた宇宙を認めるよ。生きた宇宙、イーシュワラに考えが留まりますから、考えはやっと安心の場所を見つけてくつろぐのだよ」と。


生きた宇宙、イーシュワラから全てが与えられています。地球も、空気も、土も、太陽の光も、水も、食べ物も、体も、家族も、役割も、考えという道具も、全てが与えられていて、それはプラサーダなのです。あの社長さんは、「このお菓子はプラサーダですよ」と聞いた瞬間に、聖典の明かすこういった宇宙観を思い出したのです。社長さんの考えは、次のようなものなのです。


「ああ、イーシュワラ。ついつい、あなたを見失って、周りとの競争だけに巻き込まれて意地をはったり、意地悪になったり、駆け引きしたり、孤立感や不安におちいってしまう私をお救いください。あなたを想える考えに満たされますように。ああ、イーシュワラ。私の考えにあふれてください。私の口を通して、思いやりや、やさしさの言葉としてあふれてください。無知な私が、私にあふれようとしているあなたを止めてしまいませんように。歪みのない知識として私の考えに現れてください。人々を喜ばせる技術として、私を通して現れてください。私の足として現れ、行くべきところに私を運んでください。無知ゆえの私のへたな駆け引きが、私に現れようとしているあなたを妨げませんようにお守りください。ついついあなたが見えなくなって、小さな見方になり、不安になり、不平不満になり、私は怒りにすらなってしまいます。ああ、私をお守りください。いつも、あなたからのプラサーダを想える、きれいな考えをお与えください。」


こんなふうに、プラーダの意味を想えているとき、社長さんの考えは、そもそもの喜びに満たされていることがわかりますでしょうか? こんなふうに祈れる事こそが、プラサーダなのですね。 


努力して勉強してきたのに、試験に落っこちたとしても、「ああ、この学校は私の行くべき学校ではなかったようだ。他に行くところがあるのだ」と、イーシュワラを知っている人の目には、不合格ですらプラサーダなのです。その人の人生はくつろいでいて、不安なく、ご機嫌です。


子供はプラサーダなのです。インドでは、子供の名前にプラサーダとつける親も多いのですよ。プラサーダちゃんです。なぜなら、お寺のプラサーダと同じく、プラサーダちゃんが、いつも大切な事を思い出させてくれるからですね。大きな愛の人に生かされている事を毎日想いながら、子育てができるってすてきですね。


さて、いかがでしょうか? ヴェーダの文化を生きる人の目にとって、この生き方が「したい事」であり、「すべき事」なのです。そして、それをかなえてくれるキーワードがプラサーダです。プラサーダの意味を知って深める喜びがある生き方、祈りのある生き方、知的でわくわくする生き方をヨーガと呼ぶのです。そして、このヨーガの生き方によって準備された、きれいな考えにだけ、先生の明かすヴェーダーンタの言葉がうまく働き、やがて、人はモークシャと呼ばれる自由を得るのです。それが、人間のゴールです。



ヴェーダの国の人々にとっては、この宇宙こそが生きていて、それはイーシュワラと呼ばれます。星が周期し、季節が変わり、雨が降り、一粒の種から花が咲き、その生きた宇宙の秩序はダルマと呼ばれます。

ヴェーダの国では、学校の先生の仕事といえば、ダルマを教えることを意味します。子供たちは小さなころから、目に見える世界だけではなく、その後ろにある目には見えないかすかな秩序、ダルマを教わります。


勉強や仕事、結婚生活だって、ダルマをたどってイーシュワラを理解しようとする生き方、ヨーガとなるのです。勉強も働くこともダルマの意味とつながらないままに「どう生きたいのか」と問い詰められる事は、子供にとって、それはそれは恐ろしいことです。だから、安全のための進路になるし、休日を待ち望んで働く人生になるし、月曜日の朝にはため息がでるし。でも、辞めてどうなるのかと思うし。世の中のことが、わかればわかるほど、大人になるほど「ちっぽけで取るに足らない私」、かけひきばかりの私。


そんな私が大人になって、何かむなしく思うとき、もし、そんな自分からの自由を求める旅がはじまるなら、ヴェーダはそれを祝福し、ヨーガと生き方を教えはじめます。



ヴェーダの最後、ヴェーダーンタに教えられているモークシャの知識は、ヨーガを生きるヨーギーたちのきれいな考えだけに宿ることができると伝えらえています。時間と空間ですら閉じ込めることのできない私、それこそが本当の私の姿であると知り、ヨーギーたちは、限りの無い自由、モークシャを得ると言われています。





Cetana先生の勉強会も定期的に開かれています。
パラヴィッディャーケンドラムの詳しい情報はコチラまで




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2019年7月6日土曜日

「Essence of Vedanta Vol,1 –プラサーダ 前編–」

Essence of Vedanta Vol,1



第一回目の今回はSwami Cetanananda Sarasvati先生による「プラサーダ」についてのメッセージです。
前編、後編に分けて皆さんにお届け致します。

Cetana先生の明かすプラサーダのヴィジョンが私たちにクリアに見えますように。




プラサーダが見えるきれいな考え –前編–

プラサーダという言葉があります。
この言葉は、生き方をヨーガに変えるための、ストレスから自由でご機嫌な生き方のための大切なキーワードなのです。このプラサーダの文字通りの意味は、「ご機嫌、朗らか」という意味なのですが、この意味をヴェーダの文化を持つインドの人々は、とてもとても大事な意味で使います。それが何かを見てみましょう。

さて、皆さんは、生活の中で「したい事」と「すべき事」は、そもそもひとつの同じものだと言えば、どう思われますか? 「したい事があるけど、それは今度の連休まで楽しみにとってあって、今は、お金を稼ぐためにしたくない仕事をしているのだ」という人も多いのではないでしょうか?

私の子供の頃を思い出します。毎日朝早くから夜遅くまで働いている父を見て、大人は大変だなーと思っていました。ある時、父が「あー、ゆっくり本を読んで余生を過ごしたいものだ」と言うのを聞いて、私は尋ねました。「お父さん、どうしてしたい事しないの?」と。父は、困った顔をして「したい事をしていては食べていけないのだよ。まずは食べるために働かなきゃ。働いてお金がたまったら好きな事ができるんだよ」と言いました。それから何年も経って、進路を決めなければならない日が来ました。いよいよその日が来てしまったという思いでした。その時に再度、父に聞きました。「お父さん。したい事をし続けたら、仕事になるような気がするんだけど、どう思う?」 父は答えました。「そんな事が叶うのは、よほど秀でた能力のある稀な人だよ。普通の人は、したい事でも仕事になれば、いやになるのさ。まず、お金のために働きなさい。それから趣味で、いろんなことをすればいいでしょ。」

最近は、時代も変わって、そんなお父さんは少なくなっているかもしれませんね。私立の学校では、個々の子供の持つ能力を育てる方針の教育があるとか聞きます。先生も親も協力して、それぞれの子供が関心を示す部分を育てるそうです。その方針で育った子供は「したい事」と「すべき事」の分裂の無い人生が開けてゆくのでしょうか?毎朝、ため息をつきながらお布団から出てきて「働きに行かなきゃ」と、疲れた体を引きずりながら家を出てゆく大人にはならないと言う事でしょうか?

ヨーガという言葉のふるさとはヴェーダの文化です。今でもインドに深く根付いているヴェーダの文化の中で20年ほど過ごして知った、このプラサーダという美しい言葉の意味を伝えたくて、この文章を書いています。ヴェーダは私たち人間の考えが及ばない全体宇宙を明かしている教えで、聖典と呼ばれます。そのヴェーダの明かす宇宙観はこの文化を生きる人々の考えに宿っていて、大人になるという意味、働くという意味をそんなふうに辛く感じていた私の宇宙観、人生観とはまったく違ったものでした。

ヴェーダの言葉でいうなら、「あれを得たい、これがしたい」という願望はラーガと呼ばれます。また、「すべき事」はダルマと呼ばれます。例えば、誰だって知っているように、人は嘘をつかずに正直であるべきです。まわりの人や物を傷つけたりせずに、親切にやさしくすべきですし、不公平でなく公平であるべきです。無関心やいじわるでなく、思いやりをもって振舞うべきです。「すべき事」、ダルマを選ぶべきです。しかし、ダルマから外れて、ラーガが強くなればなるほど、嘘をついたり、ごまかしたり、地位を悪用してでも、したい事をするために、もっとすべきでない事を人はしてしまいがちです。反対に、私の父のように「すべき事」を選ぶ強い人でも、それは「したい事」と違っているように見えてしまうようです。いや、それ以前に、「あれが得たい、これがしたい、こうありたいといった目標なんて持てない」という無気力になってしまう事もありますよね。何が起こっているのでしょう。

実は、その点に関して、聖典ヴェーダははっきりとした答えを持っています。「すべき事」をする時「したい事」とは違って見えるという人生も、「したい事」への欲望で「すべき事」とは正反対の事をしてしまう人生も、「したい事」が何もないという無気力な人生も、単純に無知から起こっているというのです。悪い人ではなく、情けない人でもなく、単に知らない人なのです。知らない事がその根本的な原因なのです。そして、その無知を追い払い知識を明かすための道具が、ヴェーダとその最後の部分、ヴェーダーンタの言葉なのです。ちょうど、ジグゾーパズルで言えば、全部のピースが見事に組み合わさらないと、美しい全体の絵は見えませんよね。全体の絵が見えないので、つまり、全体に無知なのでそれを完成してみたいという願望が少しも持てません。ほんの少しのピースをあちこちバラバラと組み合わせてみても、疲れ果てるだけで少しもわくわくしません。「少しでも、このピースに合うピースを見つける努力をしなさい。それがすべき事だ」と言われても、とてもしたい事とは思えません。何のためにするのでしょう? それに似て、私たちは「結婚」「仕事」「家族」「勉強」「死」「生」「愛」など、ピースとなる言葉は聞いたことがあっても、それが全体の中でどのような意味があるのかが見えていないのです。その状態で、どうして、人生にわくわくできるでしょう? 全体に無知なのに、どのように「したい事」と「すべき事」がひとつに見えるでしょう?

ヴェーダの文化を生きる人にとって、人の成熟とは、先生の教えるヴェーダや、その最後の部分のヴェーダーンタの言葉を学んで無知を落としてゆく事です。言い換えるなら、「したい事」と「すべき事」は、知れば知るほど、そもそもひとつであったことが明かされてゆきます。「したい事」と「すべき事」がいつもひとつになっているに違いないご機嫌なジニャーニー(知った人)を私はたくさん見てきました。その中でも、スワミ ダヤーナンダジはそれを極めた人でした。2015年に体を離れられましたが、いつもご機嫌なクラスで、生徒たちを笑わせながら、わくわくさせながらヴェーダーンタを教えてくださる先生でした。彼のもとで、たくさんの生徒たちが学びました。私たちは、たくさんのプラサーダを受け取りました。全体を知るための道のりは、わくわくする喜びの道のりなのです。それは、不安から安心への道のりです。無知と不安はいつも共にあるからです。

インドのお寺では、毎日の朝夕の儀式が終わった後すぐに、神様に捧げられたお供えがお参りをした皆に配られるのをご存知ですか? お水や、お花や、お菓子、それに果物など、神様に捧げられた物が、神様から参拝者たちに返ってくるものもプラサーダと言うのです。参拝者たちは、プラサーダをありがたく受け取った後、お水やお菓子などはすぐに自分の口に入れるだけでなく、家族や親しい人へのお土産としてきれいに包んで家に持ち帰る人も多いのです。

例えば、持ち帰ったプラサーダの甘いお菓子が、次の日、お勤め先で配られるとしましょう。
「あっ、社長。このお菓子、社長もぜひどうぞ。」
「うーん。わしは糖尿病をわずらっているので、甘いものは遠慮しとるのだよ。」
「いいえ社長。これはプラサーダです。」
「おー」

プラサーダと聞いたこの社長さんの反応「おー」を、ここからはうまく伝えたいと思います。

この社長さんは、プラサーダのお菓子を手にしてありがたく眺めた後、幾つかの小片に砕いて、まるで神様が処方した薬を口にするかのように小さなかけらを指につまんで口に入れるでしょう。確実に血糖値は上がるでしょうから小さなかけらだとしても。残った全てのかけらは、大事に紙に包んで、家族や親しい人に配るために持ち帰るでしょう。これが、プラサーダと聞いたとたんに思い出す意味から起こる態度なのです。ついつい、私たちの目には見えなくなりがちな事を、プラサーダのお菓子が思い出させてくれるのです。

ヴェーダの文化の中で育ったインドの人たちの中では、この社長さんと同じように、プラサーダと聞いて態度が変わる人が多いでしょう。プラサーダと聞いたとたんに、日常では忘れがちな大切な事が見えるからなのです。それを思い出させてくれるのがお寺で配られるプラサーダなのです。



ではいったい、プラサーダという言葉で、何を思い出すのでしょうか?「波と海のお話」を使って、考えてみましょう。


左の波くんは、涙を流していて辛そうです。何が起こっているのでしょう? 右の波さんには見えている、何かが見えていないのです。

「あー、何て、ボクはちっぽけでとるに足らない波なのだろう。あー、まずはあの大きな波に認められて、ボクも取るに足る大きな波にならなきゃ。そして、地位や富を得て安心を得なきゃ。」

ちょうど、真っ暗な夜の森の中では、キャンプファイヤーの火の明かりが届く範囲だけしか見えないように、左の波くんの考えに明かせるのは、ほんの小さな範囲だけのようです。彼の考えにあるのは周りの波の様子だけで、それ以外の事は無知の暗闇に隠れているのです。同じような例えですが、小さな子供の目には、スーパーマーケットでお野菜が採れると見えるそうです。その子供の考えに明かせるのは、スーパーマーケットのお野菜だけで、その後ろにあるお百姓さんや、流通業の人たちや、そういった人たちの苦労は見えていなくて、無知の暗闇の中に隠れているのです。感謝の気持ちの起こりようがありません。ですから、時にはとてもわがままです。

それと同じように、たくさんの事を知っているはずの私たち大人だって、その考えにはほんの薄っぺらな世界だけが明かされているにすぎません。私たちは無知の暗闇の中で、ほんの小さな世界を全世界だと言い張るのです。「そんな事はない」と言えますか? いいえ。なぜなら、お百姓さんや流通業の人たちのさらに後ろに働いている最も大切な人が見えていないからです。聖典ヴェーダやヴェーダーンタが私たちに明かしているのはその人なのです。


後編に続く。