「Essence of Vedanta Vol,2 」
セーヴァー −後編−
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グル・セーヴァー
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セーヴァーは、助けを必要としている状況に対して手を差し伸べるものだけではなく、グル・セーヴァーと呼ばれる、ヴェーダやヴェーダーンタを勉強するためのものもあります。教えを聴きたい、という動機によって行われることから、グル・セーヴァーは「シュッシュルーシャー(शुश्रूषा [śuśrūṣā]、聴きたいと望むこと)」とも呼ばれます。
ヴェーダーンタを学ぶ上で、セーヴァーが必要であることは、バガヴァッドギーター4章34節において、バガヴァーン自身によって、「完全なナマスカーラ、適切な質問、そしてセーヴァーをすることを通して、その(知識)を理解しなさい」と、「セーヴァー」という言葉を使って教えられています。
तद्विद्धि प्रणिपातेन परिप्रश्नेन सेवया। उपदेक्ष्यन्ति ते ज्ञानं ज्ञानिनस्तत्त्वदर्शिनः।।4.34।।
ヴェーダーンタの教える自分の本質とは何かの知識を、単なる難しい哲学的情報でななく、自分自身の意味として理解することを望む人は、セーヴァーをする機会を積極的に見つけて活用するべきです。
ここで、私自身の経験の話をしますね。
私はコインバトールのグルクラムに移る前は、北インドにあるリシケシのダヤーナンダアシュラムにて、ヴェーダーンタとサンスクリット語文法、そしてチャンティングの勉強するための生活をしておりました。当時のリシケシのアシュラムでは、「コース」といったクラスはありませんから、勉強したいのなら、自ら先生のところに行って、「私のためにクラスをして下さい」と直々にお願いするところから始めなければなりません。
私が頼んだからといって、先生が必ずOKしてくれるとは限りません。先生には既にいろいろするべきことがあるでしょうし、また、私のために教える時間をわざわざ作る価値があるのか、と思うかもしれません。実際、クラスをして欲しいと頼んだのに、実際クラスを始めてみると、一回も来ない人やすぐに来なくなるという人は多く、先生の時間を無駄にさせてしまうことは多々あります。
このようなことから、まずは、私を教えるための時間を捻出してもらうために、先生を無駄に忙しくさせている作業を見つけ出して、肩代わりさせてもらえないかお願いするところから始めていました。それがきっかけで、クラスの準備として、教室を確保して掃除し、他の人を集めたり、書籍を手配したり、授業で使うサンスクリット語の書類を作ったり、校正作業をしたり、先生の代わりに簡単な英語やサンスクリット語を他の生徒に教えたりと、いろいろさせてもらうことが出来ました。クラス開催のための先生への直接のセーヴァーだけでなく、クラスを可能にしてくれているアシュラムのセーヴァーとして、オフィスや図書館、本屋、テンプルなどを手伝ったり、アシュラム内や近隣に住んでいるお年寄りのお手伝いや、アシュラムへの訪問者のさまざまな遣いっ走りなど、さまざまな活動をさせてもらうことが出来ました。
セーヴァーをしていく上では、指示待ちではなく、自分から、この状況でどうすることが、ダルマに沿っていて、人々の幸せを増やすことが出来るのか?を自分の頭で考えることが要求されます。このようなアプローチでの勉強環境の実現は、いろいろ大変だったかも知れないですが、より伝統的なアプローチであり、この勉強に対する必要なあるべき姿勢を体得させてもらう機会となったので、私はこのような環境で勉強を始められたことを、とても幸運に思っています。
プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉の意味を、ヴェーダーンタのクラスを通して教えてくれただけでなく、スワミジの、思いやりそのものの生き方を通しても教えてくださいました。
その教えを受けて、実際に自分がリシケシのアシュラムで生活をしていて学んだことは、「他人がどうすべきか?」といったことは考えるだけ不毛なので、意識して一切考えないようにして、「自分が今ここで出来ることは何か?するべきことは何か?」だけを考えるようにすれば、生きていることが全く難しくなくなり、人生は充実したものでしかあり得ない、ということです。
自分が世界を見渡すとき、貢献者になろうとして自分と世界を見ていれば、難しいことや苛立たしいこと、不便さといったことはあっても、自分が不幸になることはあり得ません。「自分はこれだけ貢献しているのに、誰からも感謝されない」と嘆くのは、「相手は自分に感謝すべきだ」と、やはり「他人がどうすべきか」と考えている証拠です。
他人の言動に、自分の幸せを委ねているから、他人の言動を支配しようとしてしまうのです。自分が自分を肯定していないから、他人からの肯定的認証に心理的に依存するのです。
どれだけ多くのものに恵まれていても、本人が消費者目線で世界と関わっている限り、自分は不幸だと嘆くことになります。一方、たとえ傍目からは何も持っていないように見えても、自分が世界を見渡すときの姿勢が「ここで私が出来るセーヴァーは何か?」という貢献者的目線なら、「私は全てを与えられている」という事実に気づくことができます。
また私は、自分自身が先生方から受け取ったヴェーダーンタとサンスクリット語の知識を教え継ぐ活動もしていますが、その活動の全ても、セーヴァーの精神によってのみ成り立っています。私自身が、「教えないといけない」というプレッシャーを全く持っていないので、クラスの開催に関わる全ては、学びたいと真摯に願う人々によって、それだけでなくさらに、他の多くの人々にも学ぶ機会を提供しようとしてくれている、高尚な意思を持った人々によって運営されています。これは、ヴェーダを発見したリシ達から、ヴィヤーサ、シャンカラーチャーリヤ、そして私の先生まで綿々と続く、グル・パランパラー(知識伝承の系譜)にある先生方の恩恵の表れに他なりません。
このように、日本でクラスが出来るというのは、私にとっては奇跡的事象です。ですから、お客様的・消費者的態度で参加するのではなく、是非、貢献者的態度で、運営してくださっている方々に感謝し、手助け出来ることはないかと探す姿勢でクラスに参加し、学びの機会・成長の機会となるよう、希少なクラスを活用してください。
また、今年(2019年)の9月には、インドからパラマートマーナンダ・スワミジが日本の皆さんの為にヴェーダーンタを教えにいらしてくださいます。インドからスワミジをお呼びするということは大変なことで、多くの方面で多数のセーヴァーを必要としています。セーヴァーをする側として参加してみると、ただ聴いているよりも、はるかに多くのことを学びとることが出来ます。是非、勇気を持って一歩踏み出して、この機会を活用してみてください。
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ゴー・セーヴァー
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インドの伝統では、特に牛のお世話をすることを、「ゴー(牛)・セーヴァー」と呼び、今でもとても神聖な行為として、重要視されています。牛からとれるミルクや牛糞は、火の儀式やプージャーなどで捧げものとして使われるだけでなく、場を清めたり、薬品としてなど、インドの伝統文化の中で様々な用途で使われています。
ゴー・セーヴァーの精神では、ミルクを産出しない老いた牛や雄牛も、大切に飼育されます。直接的に何も生産していなくても、ただダラダラ生きているだけの牛達を、尊敬し、それなりのお金と人員を使って、大切にセーヴァーをするのです。動物を利用できるのが人間の特権ではなく、動物のセーヴァーを出来るのが、人間の特権なのだと、私達に教えてくれます。
これは、今の日本には、とても重要なことだと私は思っています。資本経済主義の社会において人々は、金銭的価値を生まないものは喰うべからず、という暴力的な価値観を振りかざし、自分自身を含めた社会を構成している全ての人々をジャッジし、結局、自分自身が苦しむ結果となっているように見えます。
自分は人間なのだから、人間的意思を使えば、他を生かすことが出来るし、自分は生き物だから、他によって生かされている。この当たり前の事実が、見えづらい社会になっているようです。このような、人間と自然との繋がりについて、インドの伝統的な価値観に沿った場所で牛のセーヴァーをしていると、いろいろ考えさせられます。ゴー・セーヴァーは、そのようなことを考えるためにもあるのではと思います。
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現代社会において見直されるべき、祈りという貢献
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最近、生きているだけで価値がある、というフレーズが聞かれるようになりました。動物の場合は生きているだけで貢献者になれるように出来ているので、本当に生きているだけでいいのですが、人間の場合は、意思を使って行動しなければ、なかなか貢献者になれなません。しかも人間は、貢献者として世界と関わっているという自覚を持って初めて、自分を受け入れらるという心理構造を持っているものです。
貢献者として世界に関わるということは、必ずしもより多くの金銭的価値を生んでいるということではありませんし、より多くの点数を取ったり、より高い役職についたりすることでもありません。それらは貢献になることもあれば、破壊につながることもあります。そして何よりも、貢献の仕方は人それぞれです。
生まれや育ちに関わらず、どんな人でも出来る貢献が、祈りです。どんな健康状態でも、経済状態でも、くよくよ悩むことが出来るマインド持っている人なら誰でも、マインドひとつで出来るのが、生きとし生けるもの全ての幸福を願う祈りです。祈りに必要なものは、たったひとつ、自分の自由意志だけです。マインドを使ってする行為も立派な行為です。自由意志を使ってされた行為は必ず結果を生みます。皆の幸せを祈ることによって、生まれや育ちに関わらず、いつでもどこでも誰でも平等に、社会貢献は出来るのです。
そしてその祈りを、言葉や行動へと表現していくのです。生きていることそのものが祈りになるのです。
祈りがどのように言葉やは、人それぞれ、その人の生まれや育ちや環境・状況など、様々なコンディションによって決定されますが、それは優劣の付けられるものではありません。皆それぞれ違った形で社会参加をしているから社会として機能しているのであって、そこに優劣をつけられるものではありません。どのような生まれでも育ちでも、それぞれに貢献の仕方がある。自分のするべきことをすることによって、どのような生まれでも育ちでも、精神的な成長を手に入れるチャンスは等しくある、というのがヴェーダのヴィジョンです。好きなことだけをするために、するべきことを放棄する。他人を蹴落として競争に勝つ。環境の循環機能を破壊して最大限に搾取する。
こういった、現代のいわゆる「成功像」は、人間の成長でも成功でもないということを、ヴェーダは始まりの無い時から知っていて、人間に教え続けてきたのです。それなのに、それがカースト制度だと歪曲されてしまったことは人類にとって不運なことです。
現代の自由競争社会では、自分のするべきことを放棄して好きなことだけをしたり、競争の中で他を蹴落として下剋上を達成したり、環境を破壊して搾取することが、人間の「自由の証し」として善しとされていますが、当然それでは無理があり、環境的・心理的にストレスが大きく、結局人間は本当に幸せになれないということを人間は早く学ぶべきです。
競争をしなくても、自分の居る場所で、自分に与えられたこの身体この心で、誰でも貢献者になれるのです。そのスタート地点は、生きとし生けるもの全ての幸せを祈ることです。それは立派な貢献です。「私は毎日生きるもの全ての幸せを祈ることを日課としている人間です」という自己認識に勝る自己肯定はありません。そして、この身体この心をうまく使えれば、その祈りを、人々に届く言葉や行動へと表現することも出来ます。それはその人それぞれで、その表現方法に優劣はありません。
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自分を知ること
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人間という生き物は、幸せの追求のためにある人生の中で、自分とは何者か?という自己意識が、最重要事項である生き物です。同時に、全ての人間は、自分という存在の本質を知らずに生まれて来て、さらに、それを知る由も体の中に持っていません。だから、自分の身体や自分の心、自分の持ち物など、自分を取り巻く環境で自分の価値を判断してしまうことは避けられません。
自分をジャッジする要因として、金銭価値や、その生産性といったものほど中身の無いものはありません。しかし現代の社会では、金銭価値という数字がそのまま人間の価値にとして受け入れられているかのようです。そのような基準で、自分と他をジャッジして、自分と他を窮地に追い込んでいるのだとしたら、それほど意味のない人生はありません。
また、自分の前世や来世、カルマなどで自分をジャッジしようと(もしくはされようと)する人々も多数います。しかし、それも小さな自己認識の上に成り立っています。この小さな自分が天国に行ったり生まれ変わったりしている以上、根本的な問題の解決に繋がっていないことには、何ら変わりはありません。
今後、ベーシックインカムの導入などで、生き延びるためにがむしゃらになって努力する必要がなくなり、目先の目標によって気を紛らわすことが出来なくなったら、人間はさらに、自分とは何かの問いに直面させられることになります。
この根本的な問いに完全に答えるだけでなく、毎日の生活の中での姿勢についてまでも含めた、トータルなヴィジョンを教えるヴェーダとヴェーダーンタは、今後人類がより注目すべき知識となるでしょう。
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終わりに
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ここまで長い文章を書きましたが、冒頭でもお伝えしたように、やはり、このような話は、直接顔を見ながら話し、聴くものです。文面だけでは伝わらないことが沢山あります。ですから、この文章を読んだだけで分かった気になるのではなく、きちんと理解するためには、是非、パラマートマーナンダスワミジのクラスはもちろん、私や私と同じ師を持つ先生方のクラスに出てみて、じっくり話を聴き、質問をしに来てください。
全ての人々の幸せを祈りながら。。
Medha Chaitanya
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Medha先生のクラスも定期的に行われています。
是非、足を運んで直接お話を聞きに行ってください。
詳しくはBlogへ
http://medhamichika.blogspot.com/p/blog-page_27.html
Harih Om
グル・セーヴァー
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セーヴァーは、助けを必要としている状況に対して手を差し伸べるものだけではなく、グル・セーヴァーと呼ばれる、ヴェーダやヴェーダーンタを勉強するためのものもあります。教えを聴きたい、という動機によって行われることから、グル・セーヴァーは「シュッシュルーシャー(शुश्रूषा [śuśrūṣā]、聴きたいと望むこと)」とも呼ばれます。
ヴェーダーンタを学ぶ上で、セーヴァーが必要であることは、バガヴァッドギーター4章34節において、バガヴァーン自身によって、「完全なナマスカーラ、適切な質問、そしてセーヴァーをすることを通して、その(知識)を理解しなさい」と、「セーヴァー」という言葉を使って教えられています。
तद्विद्धि प्रणिपातेन परिप्रश्नेन सेवया। उपदेक्ष्यन्ति ते ज्ञानं ज्ञानिनस्तत्त्वदर्शिनः।।4.34।।
ヴェーダーンタの教える自分の本質とは何かの知識を、単なる難しい哲学的情報でななく、自分自身の意味として理解することを望む人は、セーヴァーをする機会を積極的に見つけて活用するべきです。
ここで、私自身の経験の話をしますね。
私はコインバトールのグルクラムに移る前は、北インドにあるリシケシのダヤーナンダアシュラムにて、ヴェーダーンタとサンスクリット語文法、そしてチャンティングの勉強するための生活をしておりました。当時のリシケシのアシュラムでは、「コース」といったクラスはありませんから、勉強したいのなら、自ら先生のところに行って、「私のためにクラスをして下さい」と直々にお願いするところから始めなければなりません。
私が頼んだからといって、先生が必ずOKしてくれるとは限りません。先生には既にいろいろするべきことがあるでしょうし、また、私のために教える時間をわざわざ作る価値があるのか、と思うかもしれません。実際、クラスをして欲しいと頼んだのに、実際クラスを始めてみると、一回も来ない人やすぐに来なくなるという人は多く、先生の時間を無駄にさせてしまうことは多々あります。
このようなことから、まずは、私を教えるための時間を捻出してもらうために、先生を無駄に忙しくさせている作業を見つけ出して、肩代わりさせてもらえないかお願いするところから始めていました。それがきっかけで、クラスの準備として、教室を確保して掃除し、他の人を集めたり、書籍を手配したり、授業で使うサンスクリット語の書類を作ったり、校正作業をしたり、先生の代わりに簡単な英語やサンスクリット語を他の生徒に教えたりと、いろいろさせてもらうことが出来ました。クラス開催のための先生への直接のセーヴァーだけでなく、クラスを可能にしてくれているアシュラムのセーヴァーとして、オフィスや図書館、本屋、テンプルなどを手伝ったり、アシュラム内や近隣に住んでいるお年寄りのお手伝いや、アシュラムへの訪問者のさまざまな遣いっ走りなど、さまざまな活動をさせてもらうことが出来ました。
セーヴァーをしていく上では、指示待ちではなく、自分から、この状況でどうすることが、ダルマに沿っていて、人々の幸せを増やすことが出来るのか?を自分の頭で考えることが要求されます。このようなアプローチでの勉強環境の実現は、いろいろ大変だったかも知れないですが、より伝統的なアプローチであり、この勉強に対する必要なあるべき姿勢を体得させてもらう機会となったので、私はこのような環境で勉強を始められたことを、とても幸運に思っています。
プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉の意味を、ヴェーダーンタのクラスを通して教えてくれただけでなく、スワミジの、思いやりそのものの生き方を通しても教えてくださいました。
その教えを受けて、実際に自分がリシケシのアシュラムで生活をしていて学んだことは、「他人がどうすべきか?」といったことは考えるだけ不毛なので、意識して一切考えないようにして、「自分が今ここで出来ることは何か?するべきことは何か?」だけを考えるようにすれば、生きていることが全く難しくなくなり、人生は充実したものでしかあり得ない、ということです。
自分が世界を見渡すとき、貢献者になろうとして自分と世界を見ていれば、難しいことや苛立たしいこと、不便さといったことはあっても、自分が不幸になることはあり得ません。「自分はこれだけ貢献しているのに、誰からも感謝されない」と嘆くのは、「相手は自分に感謝すべきだ」と、やはり「他人がどうすべきか」と考えている証拠です。
他人の言動に、自分の幸せを委ねているから、他人の言動を支配しようとしてしまうのです。自分が自分を肯定していないから、他人からの肯定的認証に心理的に依存するのです。
どれだけ多くのものに恵まれていても、本人が消費者目線で世界と関わっている限り、自分は不幸だと嘆くことになります。一方、たとえ傍目からは何も持っていないように見えても、自分が世界を見渡すときの姿勢が「ここで私が出来るセーヴァーは何か?」という貢献者的目線なら、「私は全てを与えられている」という事実に気づくことができます。
また私は、自分自身が先生方から受け取ったヴェーダーンタとサンスクリット語の知識を教え継ぐ活動もしていますが、その活動の全ても、セーヴァーの精神によってのみ成り立っています。私自身が、「教えないといけない」というプレッシャーを全く持っていないので、クラスの開催に関わる全ては、学びたいと真摯に願う人々によって、それだけでなくさらに、他の多くの人々にも学ぶ機会を提供しようとしてくれている、高尚な意思を持った人々によって運営されています。これは、ヴェーダを発見したリシ達から、ヴィヤーサ、シャンカラーチャーリヤ、そして私の先生まで綿々と続く、グル・パランパラー(知識伝承の系譜)にある先生方の恩恵の表れに他なりません。
このように、日本でクラスが出来るというのは、私にとっては奇跡的事象です。ですから、お客様的・消費者的態度で参加するのではなく、是非、貢献者的態度で、運営してくださっている方々に感謝し、手助け出来ることはないかと探す姿勢でクラスに参加し、学びの機会・成長の機会となるよう、希少なクラスを活用してください。
また、今年(2019年)の9月には、インドからパラマートマーナンダ・スワミジが日本の皆さんの為にヴェーダーンタを教えにいらしてくださいます。インドからスワミジをお呼びするということは大変なことで、多くの方面で多数のセーヴァーを必要としています。セーヴァーをする側として参加してみると、ただ聴いているよりも、はるかに多くのことを学びとることが出来ます。是非、勇気を持って一歩踏み出して、この機会を活用してみてください。
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ゴー・セーヴァー
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インドの伝統では、特に牛のお世話をすることを、「ゴー(牛)・セーヴァー」と呼び、今でもとても神聖な行為として、重要視されています。牛からとれるミルクや牛糞は、火の儀式やプージャーなどで捧げものとして使われるだけでなく、場を清めたり、薬品としてなど、インドの伝統文化の中で様々な用途で使われています。
ゴー・セーヴァーの精神では、ミルクを産出しない老いた牛や雄牛も、大切に飼育されます。直接的に何も生産していなくても、ただダラダラ生きているだけの牛達を、尊敬し、それなりのお金と人員を使って、大切にセーヴァーをするのです。動物を利用できるのが人間の特権ではなく、動物のセーヴァーを出来るのが、人間の特権なのだと、私達に教えてくれます。
これは、今の日本には、とても重要なことだと私は思っています。資本経済主義の社会において人々は、金銭的価値を生まないものは喰うべからず、という暴力的な価値観を振りかざし、自分自身を含めた社会を構成している全ての人々をジャッジし、結局、自分自身が苦しむ結果となっているように見えます。
自分は人間なのだから、人間的意思を使えば、他を生かすことが出来るし、自分は生き物だから、他によって生かされている。この当たり前の事実が、見えづらい社会になっているようです。このような、人間と自然との繋がりについて、インドの伝統的な価値観に沿った場所で牛のセーヴァーをしていると、いろいろ考えさせられます。ゴー・セーヴァーは、そのようなことを考えるためにもあるのではと思います。
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現代社会において見直されるべき、祈りという貢献
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最近、生きているだけで価値がある、というフレーズが聞かれるようになりました。動物の場合は生きているだけで貢献者になれるように出来ているので、本当に生きているだけでいいのですが、人間の場合は、意思を使って行動しなければ、なかなか貢献者になれなません。しかも人間は、貢献者として世界と関わっているという自覚を持って初めて、自分を受け入れらるという心理構造を持っているものです。
貢献者として世界に関わるということは、必ずしもより多くの金銭的価値を生んでいるということではありませんし、より多くの点数を取ったり、より高い役職についたりすることでもありません。それらは貢献になることもあれば、破壊につながることもあります。そして何よりも、貢献の仕方は人それぞれです。
生まれや育ちに関わらず、どんな人でも出来る貢献が、祈りです。どんな健康状態でも、経済状態でも、くよくよ悩むことが出来るマインド持っている人なら誰でも、マインドひとつで出来るのが、生きとし生けるもの全ての幸福を願う祈りです。祈りに必要なものは、たったひとつ、自分の自由意志だけです。マインドを使ってする行為も立派な行為です。自由意志を使ってされた行為は必ず結果を生みます。皆の幸せを祈ることによって、生まれや育ちに関わらず、いつでもどこでも誰でも平等に、社会貢献は出来るのです。
そしてその祈りを、言葉や行動へと表現していくのです。生きていることそのものが祈りになるのです。
祈りがどのように言葉やは、人それぞれ、その人の生まれや育ちや環境・状況など、様々なコンディションによって決定されますが、それは優劣の付けられるものではありません。皆それぞれ違った形で社会参加をしているから社会として機能しているのであって、そこに優劣をつけられるものではありません。どのような生まれでも育ちでも、それぞれに貢献の仕方がある。自分のするべきことをすることによって、どのような生まれでも育ちでも、精神的な成長を手に入れるチャンスは等しくある、というのがヴェーダのヴィジョンです。好きなことだけをするために、するべきことを放棄する。他人を蹴落として競争に勝つ。環境の循環機能を破壊して最大限に搾取する。
こういった、現代のいわゆる「成功像」は、人間の成長でも成功でもないということを、ヴェーダは始まりの無い時から知っていて、人間に教え続けてきたのです。それなのに、それがカースト制度だと歪曲されてしまったことは人類にとって不運なことです。
現代の自由競争社会では、自分のするべきことを放棄して好きなことだけをしたり、競争の中で他を蹴落として下剋上を達成したり、環境を破壊して搾取することが、人間の「自由の証し」として善しとされていますが、当然それでは無理があり、環境的・心理的にストレスが大きく、結局人間は本当に幸せになれないということを人間は早く学ぶべきです。
競争をしなくても、自分の居る場所で、自分に与えられたこの身体この心で、誰でも貢献者になれるのです。そのスタート地点は、生きとし生けるもの全ての幸せを祈ることです。それは立派な貢献です。「私は毎日生きるもの全ての幸せを祈ることを日課としている人間です」という自己認識に勝る自己肯定はありません。そして、この身体この心をうまく使えれば、その祈りを、人々に届く言葉や行動へと表現することも出来ます。それはその人それぞれで、その表現方法に優劣はありません。
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自分を知ること
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人間という生き物は、幸せの追求のためにある人生の中で、自分とは何者か?という自己意識が、最重要事項である生き物です。同時に、全ての人間は、自分という存在の本質を知らずに生まれて来て、さらに、それを知る由も体の中に持っていません。だから、自分の身体や自分の心、自分の持ち物など、自分を取り巻く環境で自分の価値を判断してしまうことは避けられません。
自分をジャッジする要因として、金銭価値や、その生産性といったものほど中身の無いものはありません。しかし現代の社会では、金銭価値という数字がそのまま人間の価値にとして受け入れられているかのようです。そのような基準で、自分と他をジャッジして、自分と他を窮地に追い込んでいるのだとしたら、それほど意味のない人生はありません。
また、自分の前世や来世、カルマなどで自分をジャッジしようと(もしくはされようと)する人々も多数います。しかし、それも小さな自己認識の上に成り立っています。この小さな自分が天国に行ったり生まれ変わったりしている以上、根本的な問題の解決に繋がっていないことには、何ら変わりはありません。
今後、ベーシックインカムの導入などで、生き延びるためにがむしゃらになって努力する必要がなくなり、目先の目標によって気を紛らわすことが出来なくなったら、人間はさらに、自分とは何かの問いに直面させられることになります。
この根本的な問いに完全に答えるだけでなく、毎日の生活の中での姿勢についてまでも含めた、トータルなヴィジョンを教えるヴェーダとヴェーダーンタは、今後人類がより注目すべき知識となるでしょう。
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終わりに
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ここまで長い文章を書きましたが、冒頭でもお伝えしたように、やはり、このような話は、直接顔を見ながら話し、聴くものです。文面だけでは伝わらないことが沢山あります。ですから、この文章を読んだだけで分かった気になるのではなく、きちんと理解するためには、是非、パラマートマーナンダスワミジのクラスはもちろん、私や私と同じ師を持つ先生方のクラスに出てみて、じっくり話を聴き、質問をしに来てください。
全ての人々の幸せを祈りながら。。
Medha Chaitanya
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Medha先生のクラスも定期的に行われています。
是非、足を運んで直接お話を聞きに行ってください。
詳しくはBlogへ
http://medhamichika.blogspot.com/p/blog-page_27.html
Harih Om
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